先日、博物館で古い写真を見て...。
写真の事など書いています。
団子坂(東京都文京区)にて大正末期〜昭和初期、
写真材料店を営んでいた私の祖父の兄(1902)が写した
写真(ガラス乾板)が有りました。
川崎市民ミュージアム(写真に力を入れている、とお聞きした)に
寄贈した、そのガラス乾板をデジタルプリントした展示会が
二十年程前に開催されました。
その際、ミュージアムの挨拶文の中に
「同時期のフランスの写真家、ラルティーグなどを彷彿とさせます」
という紹介が有りました。
写真だけでなく祖父の兄の境遇や時代背景も含めて、
その様に表記いただいたのだと思いますが、
ラルティーグになぞらえてくださった事が、
気恥ずかしく(笑) でも、ちょっぴり嬉しいような、
そして偶然でしょうが、確かに似た構図や光の使い方の写真もあり
なるほどね〜と思ったのでした。
ラルティーグの様に人生後半での、ふとした出来事がきっかで有名になる!とか
無名だったヴィヴィアン・マイヤーの様に没後発見され映画化!
なんて言う劇的な事は、祖父の兄には起きなかったと思うのですが…笑。
それでも展示、デジタル化され、100年後の今も
記録となってウェブアーカイブ保存されている事から、
懐かしさの中に潜在する可能性や秘められた発見、
写真の持つ役割というものを考えさせられました。
ヴィヴィアン・マイヤーや、ラルティーグの写真は
プロとして発表する為ではなく(自分の為に)撮っていた行為が
逆に後々注目される一つの要因となったであろう点も興味深いです。
勿論、記録としてだけでない芸術的要素なども兼ね備えていたからだと...。
ジャック=アンリ・ラルティーグ 1894-1986
20世紀初頭のフランスのアマチュア写真家
アントニオ・タブッキ(須賀敦子 訳)装丁の写真にも使われている
ヴィヴィアン・マイヤー 1926-2006 アメリカのアマチュア写真家
今、昔の写真や絵、文章を手掛かりにして
古い着物や織りについても調べている最中なのですが
何の気無しに書いたり撮ったりしたものが、それを残した本人の意図とは
関係ない所で、後々何かの、誰かの、約に立つということが
当たり前の様な事だけれど、改めて考えてみるととても面白いなと。
写っている、書かれているもの自体は変わらないけれど
時代、見る人によって変化する、価値観、情報、芸術性、表現...
時空を超えてその当時の人と繋がっている感じ?!笑。
祖父の兄の撮った写真からも、当時の建物、街の様子、人々のスタイルを、
また映し出されてはいないけれど、当時、カメラや写真の置かれていた状況、
撮る側、撮られる側の立場(経済事情等)なども
内包されている(垣間見れる)のかなと。
博物館で拝見した古い釧路の写真の中にも、
海水浴を楽しむ大勢の人達の写真など、
今となっては信じられない光景からも、当時の常識や気候や流行や...
色々な情報の推測が可能。
(写真の技術的な事に関しては、残念ながら私はよく解らない)
先日の学芸員トーク「アイヌ文化展示のこれまでとこれから」
「写真が語る釧路のまちなみ」からの、
写真が持つ役割や可能性について、再考&ちょとした想い出話でした…。
団子坂の石垣は今も健在みたい。イラストにも石垣が描かれていますね。
オマケ
団子坂 : 明治40年頃(1907)が最盛期であった。
森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。
団子坂が書かれている作品
森鴎外:「青年」
正岡子規:「自雷也も がま も枯れたり団子坂」
夏目漱石:「三四郎」
室生犀星の詩 :「坂」
二葉亭四迷 :「浮雲」
江戸川乱歩 :「D坂の殺人事件」←読んだ事ないけど…
森まゆみさんの「鴎外の坂」は、まさしく団子坂。
元々の住まいとは違う地区に写真材料店を出した理由は分かりませんが、
団子坂について色々と本や資料を読むうち、
敢えてこの場所を選んだのかもしれないな、とも思う様になりました。
2 件のコメント:
おはようございます。くりえいとの加藤です。
写真の件で、先月訪問した都立写真美術館での展示を思い出しました。
建築写真がテーマでしたが、なかなか刺激的でした。
かなりご無沙汰しておりますが、
機会がございましたらお会いして、たくさん面白いお話をお聞かせください。
kato君、こんにちは!
色々見学に行けて羨ましいです!
都立写真美術館のHPを見てみたら「建築×写真 ここのみに在る光」の
展示関連イベントで、宮本隆司 氏の対談も有ったんですね。
写真も建築も素人なので面白い話はできるか解らないけれど、笑
いつでも遊びにいらしてください。
って言っても、なかなか会えないね〜。でも是非^^)
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