八月も近いというのに、こう寒いと「暑くてうんざりするねぇ」などと
一日でも良いから言ってみたいものだと我儘なことを思うけれど
ここではやる気を失くす程の暑さににうんざりすることも無く
気がつくと秋になっているというのが恒例なのだから
せめて「夏の町」でも読んで荷風と真夏の盛りを歩こうかと思う。
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午後に夕立を降して去った雷鳴の名残が遠く幽かに聞えて
真白な大きな雲の峰の一面が夕日の反映に染められたまま
見渡す水神の森の彼方に浮んでいるというような時分
誠に吾妻橋の欄干に佇立み上汐に逆って河を下りて来る舟を見よ。
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立続く倉の屋根に遮られて見えない奥の方から
勢よく長唄の三味線の響いて来るのを聞いたのである。
炎天の明い寂寞の中に三味線は実によくその撥音を響かした。
自分は長唄という三味線の心持ちをば、この瞬間ほどよく味い得た事は
ないような気がした。長唄の趣味は一中清元などに含まれていない
江戸気質の他の一面を現したものであろう。
拍子はいくらか早く手はいくらか細かくても真直で単調で
極めて執着に乏しく情緒の粘って纏綿たる処が少い。
しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中
この長唄に越すものはあるまい。
端唄が現す恋の苦労や浮き世のあじきなさも、
または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない
幸福な富裕な町家の娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の娘の姿をば
自分は長唄の三味線の音につれてありありと空想中に描き出した。
そして八月の炎天にもかかわらずわが空想のその乙女は
襟付きの黄八丈に赤い匹田絞の帯を締めているのであった。
…
下町の女の浴衣をば燈火の光と植木や草花の色の鮮な間に眺め賞すべく
東京の町には縁日がある。カンテラの油煙に籠められた
縁日の夜の空は掘割に近き町において殊に色美しく見られる。
もう八月も十日近くなった…
永井荷風 - 夏の町 - 明治四十三年(1910年)八月