2019年8月22日木曜日


八月、近所の小さな稲荷神社のお祭り
子供和太鼓や小さな御神輿

トラックの荷台にブルーシートのテント、提灯、紅白幕...
そこへ真夏のスコールとは違う、しとしと薄ら寒い雨が
哀愁と郷愁を助長する...



子供達の声も無く、沿道の観客も居ない

淋しい余韻を残しながら
一瞬の夏と共に、呆気なく通り過ぎて行った

こういう事を思い煩う様になったら、もう老人の域か...苦笑
まぁ、それもよし。

2019年8月17日土曜日

 

俳優のピーター・フォンダさん亡くなってしまいましたね...
(映画 Easy Rider 主演)1969年公開の映画。
デニス・ホッパーももうこの世には居ません。
こーゆー、アメリカンロードムービー最近めっきり観てないな。
淡々とアメリカの田舎を走る…そしてあっけない様なエンディング...。
アメリカと言えば、やはりこの映画。

大金を得た(ピーターフォンダ)ワイアット
(ニックネームはキャプテン・アメリカ)と(デニスホッパー)ビリーは、
カリフォルニアからマルディグラ(謝肉祭)の行われる
ルイジアナ州ニューオリンズ目指して旅に出る。
しかし「自由」を体現する彼らは行く先々で沿道の人々の思わぬ拒絶に遭い
ついには殺伐としたアメリカの現実に直面する。

デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソンも出ていましたね。
ジャック・ニコルソンと言えば「さらば冬のかもめ」という
アメリカンロードムービーも、好きな一本でした。



『イージー☆ライダー』(Easy Rider)1969年
テーマソングは、ステッペンウルフ(Steppenwolf)
Born to Be Wild(ワイルドで行こう)



『イージー☆ライダー』から20年後の映画、
『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』
1989年(監督:アキ・カウリスマキ)

架空のロックバンド「レニングラード・カウボーイズ」が登場し、
スターを目指して?!シベリアの地からアメリカ大陸を横断して
メキシコまで旅をするロードムービーも、最高だった!笑笑
(続編「レニングラード・カウボーイズ・モーゼに会う」へと更に映画は続く...)
この動画は、バンドメンバーの「Born to Be Wild」演奏シーンですが
観客のアメリカ人の描写がいちいち本当に上手くて笑いをこらえられない。

アメリカのカルチャーを知って、小津映画好きで、フィンランド好きで
東欧や、色々な文化、歴史的背景を知って観たなら隅々まで楽しめる。
なかなかそのシュールさを共有出来る人は居ないけれど
カウリスマキ、最高。
勿論、イージー・ライダーも観てないと、ね。
イージー・ライダーがあって生まれた映画なのでは!?と思ったりします。

ロードムービー、こういう淡々と、広大な、何も無い...
果てしなさ、自由、若い時に見るの大事だな。
映像から、沢山の事教わりました。
当時の文化を、今改めて見返すのもいいかもしれません。

いやぁ〜映画って本当にいいもんですねぇ〜(水野晴郎)
それじゃ、さよなら、さよなら、さよなら(淀川長治)


やっぱりバイクはノーヘルでしょう!
(チョッパーは好きじゃないけど)




映画 Easy Rider サウンドトラック

2019年8月16日金曜日



明け方、もの凄い大雨でした。台風だから...と思ったら
台風はまだ来ておらず、局地的な雨だった様子。
その後は小降りになったものの、午後になり少しずつ台風の影響か...
「雨音はショパンの調べ」どころではない!(古い...)
現在、部屋で流しているCDの音もかき消される勢いで降り出しました。

グレン・グールド...をきちんと意識して(CDで)聞いたのは
ある時、叔母の家から持ってきた「モーツアルト ピアノソナタ全集」でした。

グールドの事については名前は知ってる、何となくは聞いていた、という程度で
殆ど知識がないままに、当時はそのCDを聞いたのですが
一音聞いて「!!」これは自分の好きな音だな!と。
大体、初めて聞く音楽が自分好みかどうかは、ワンフレーズもしくは
ミュージシャンが奏でる最初の一つの音色から、
沢山の情報が一気に頭の中で解析され「あ!」と分かる感じなのです。
(聞いて行くうちに、段々じわじわ好きになる場合、
 以前はそうでもなかったのに、ある時から好きになる場合も有るけれど)

その後グールドについて気に掛ける様になると、
グールドはモーツァルトがお好きじゃないのね!というのをすぐに知りました。
運悪く、嫌いなモーツァルトを初めに聞いてしまった私...。
でもそれが良かったのかも!?今にして思うと。
この人のピアノはクラシックじゃ無いなぁ(良い意味で)と感じて
面白くて、聞いていて笑ってしまうのだから。
モーツァルトをどう解釈をしているのかな?と興味が湧いたのだから。

その後、グールドが好きなバッハの曲を演奏したCD集もどっさり聞きました。
後から知ったのですが、坂本龍一もグールドが大好きなのだそう。
グールドがバッハ好きなのは、二人とも左利きという事が関係しているだろう。
(バッハは左利きだったであろう、との事。演奏方法等に関係してくると思う。)
確か、坂本龍一も左利きでしたね。
グールドのCDを持っていた叔母も左利きでピアノ弾きでした。
私は?左3 対 右7、もしくは左4 対 右6位?!の両利きで
子供の頃ピアノをしていたけれど、今は全く弾けません、笑。
(ピアノ弾きに左利きが有利という関係性は無いそうです)
あ、話がどうでもいい方向へ逸れましたが...
すごーく端折って書くとすると
グールドには、プロセスと構造の重視(分析)、
北の理念(北方的形而上性=孤独)と言う、知的な考察
思想(理念)のようなものが演奏として現れていると感じます。
そこが好きで共感する部分なのだと思います。

近頃はポジティブ思考(南方的)が善しとされる傾向があるようだけれども
ネガティブ(という表現はちょっと違う気もするが)や孤独(北方的)から
生まれるもの、持ち合わせる魅力...北方的性質な自分に!?
寄り添う感覚なのかもしれません。

私は説明下手なので、どう好きでどう共感するのか?具体的にかつ
分かりやすく端的に伝えられません。
上手く伝えられたら誰かと一緒に共感・共有したり、意見交換したりという
楽しみもあるとは思うのですが、自分が納得したり知って感動したり、
自分一人で結構完結(満足)してしまう事が多い。
ブログで、伝える事の練習になればと思うのですが...なかなか上手く行かず、笑
その辺り、ご了承ください...。自分の考えや知識を利用して何かを得る事も
可能なのだろうけれど、そう言う欲が残念ながら欠乏している様です...笑。

どころで、上に貼付けたのは「トルコ行進曲」の聞き比べ動画↑です。
(ギーゼキング、グールド、グルダ、バックハウス、ホロヴィッツ)
トルコ行進曲、子供の頃練習しました〜。
グールドはこの録音をとるまで、この曲を余り練習した事が無かったとか!
やっぱりモーツァルト嫌いだから、ですかね...苦笑。

最後にグールドの言葉。

The purpose of art is not the release of a momentary ejection of adrenaline but rather the gradual, 
lifelong construction of a state of wonder and serenity.
芸術とは、決して一時的な興奮や環境のうつろいに心を囚われてはならないもの
ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという
課題であるのだ。

If an artist wants to use his mind for creative work, cutting oneself off from society is a necessary thing...
芸術家が創造的な仕事の為に心を使いたいならば
社会から自分自身を切り離す事は必要な事。

Isolation is the one sure way to human happiness.
隔離は人間の幸福への確実な方法だ。

- Glenn Gould


2019年8月12日月曜日

随分と更新が滞っていました。

皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。
余りに更新がないので、どうしているやら?とご心配いただく有様...。
なんとか生きております。

余りに間が空いてしまって、何を書こうか...と。笑

そうそう、先日、Giovanni Michelucci(ジョヴァンニ・ミケルッチ)という
建築家について検索していたところ、見つけたサイトの事を...。

「東京大学創立120周年記念東京大学展」
建築のアヴァンギャルド・学問の過去・現在・未来
東京大学の創立120周年を記念して1997年に開催された展示とその図録

この中の「空間の覚醒」セルジオ・カラトローニ氏の文章
がサイトで公開されていて、何の気無しに読んでみるととても面白かった。
散文の様なもので、気になった事をささっとメモに書き留めたような
ほんの短い言葉も有れば、少しまとまった内容のものも有り
建築の事ではない事もあれこれ書かれている。
(アルファベット順に小見出しが付いている)
何が面白いのか?と言われると、説明に困るのだけれど。笑
イメージを言葉にしている、言葉がイメージでもある。

ジョヴァンニ・ミケルッチに関しての部分だけ
少し長いけれど以下に引用させていただく。

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Architettura[建築] フィレンツェの丘の上にある、ジョヴァンニ・ミケルッチの住まいの、すばらしい居間で話し合った建築についての四方山な話題。確か、春あるいは秋の、ある午後のことだったと思う。

 見事な秩序で整理された、ちりひとつない室内は、トスカーナ人特有の質実さによって生み出されるもの。芸術は空気と同様に無意識の内に、しかし必然的に吸い込むものであって、抽象的な理念や語るために語るものではない、ということを説明もなしに感じとらせるかの室内の様子である。優雅で質実剛健な、年老いた紳士の住まいの、このような居間に私は座っていた。喧騒とは無縁の空気にあった。

 控え目で潔白。偉大な老人達に特有のもの憂げな落ち着きをもって、この、ジャコメッティの彫像のように細長いからだの上に白髪の頭が連なった老建築家は、私を眺める。祈りや瞑想は、すでに暮らしに欠かせぬ要素となって組み込まれているのだ、と言う。巨匠の灰色の瞳は、これまでに設計を行った幾つもの建築作品やそれらの建つ場所を偲んでは、その都度、感動でうるむ。

 木の幹や木の皮をスケッチするために、オリーブの樹々の間を散歩するのだ、とも語っていた。年取った木の皮の下を、無数の蟻が往つたり来たりする様子について、上品な表現で克明に話してくれもした。空に散る星や星座についても語ってくれた。デザインの行為において最も重要な部分は、実は、思考のエネルギーの部分なのである、と強調していた。

 そして、老建築家はこう言った。「私の願いは、永遠の休息につくことなのだ」と。「愛する恋人を待つかのように、毎日、永遠の眠りが訪れるのを待っているのだ」と。「建築においては、規模の大小は問題ではない。大きさは、視点の純粋さの中に見出すべきだ」と。

 こうして私は、偉大な建築家達が、初めて何かを発見して喜ぶ偉大な子供達のような存在であることを悟った。彼等は共通して、空に向ける眼を持っている。そして、空を流れ落ちる星を指さすのである。

東京大学総合研究博物館 HPより
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イメージを言葉にしてみる事は大切だと思うし、思考の整理になる。

昔、旅先で見た建物や街並等をスケッチしたり、見たもの、感じた事、
食べた物などを小さなスケッチブックに書き留めまとめた事がある。
ごくたまに開いてみると、すっかり記憶から消えていた事がそこに書かれている。
そこから記憶が引き出されて、忘れていた事を少し思い出す事もある。
古くて新しい小さな発見。何年、何十年と経って、見る時・読む時によって
感じ方、関心の箇所が変わるのも楽しい発見だったり。
そして相も変わらずなところも。笑

ところで、フィレンツェに建つジョヴァンニ・ミケルッチの
サンジョヴァンニバッティスタ(洗礼者ヨハネ)教会、別名「太陽の高速道路教会」
外観は見る方向によって異なる形が、コルビュジェのロンシャン礼拝堂を
彷彿とさせる気がしなくもないけれど(ジョヴァンニ・ミケルッチさん、ごめんなさい!)
内部がとても興味深いです。(どう興味深いかは長くなるので割愛)
素人なので、構造云々の善し悪しは分からず
総合的にどうとか判断できないのが残念ですが、笑)それは抜きにして
自分の好きな物、気になるもの、良いなと思うものは瞬時に多くの情報を
キャッチして判断しているんだろうなと..。
そして...教会建築は非物質的な領域の部分に関しても理解しなくては分からない。
というのがつくづく思う事で、当たり前なのだけれど重要な事と思う(そこが面白い)